でこぼこよみもの

『デコボコ』だけど相当『平凡』な人たちの『でこぼこ』した話

やるも人生、やらぬも人生! ~毎日の選択で人生が変わる~

今このブログを見ている方は人生でやり残したと思ったことはありますか?

よくお酒の席で「オレ、若い頃は◯◯(超有名ミュージシャン)と知り合いで、よく飲みにいってたよ」とか「あの時、あの物件を買っていたら今頃、最低5億はあったな」といった過去のその人おなじみの武勇伝を聞くことがありますよね。でも、今日のお話はそういったお話しともチト違う角度から「幸せのカタチ」を考えてみました。

今考えてみると、あの時、ああしていたら…と後で思うことってありますよね?そういった内容なのか?乞うご期待。 では、いつものように、お目目を拝借!

 

今の仕事で以前、自分が担当だった方(年齢80代 男性 独身)の自宅に訪問した時のこと。

 

「昔、俺は映画の主演になるはずだった」と突然の告白をした。

「エッ!ちなみになんて映画ですか?」と聞いたら

「三島由紀夫の潮騒って映画だよ。知ってる?」

 

私は驚いた。熱狂的な映画ファンではないが、三島由紀夫の代表作の潮騒は知っている。昔、NHKかなんかでやっていたような気がする。小さい頃でよく覚えていないが。

 

「昔、自分の親戚が映画会社に勤めていて、潮騒の映画監督と知り合いでね。その映画監督が主演を探していて、その親戚が自分の写真を監督に見せたらいたく気に入ってね。」とその方が話すと、すかさず

 

「そうだったんですか。でもなんで、出なかったんですか?」と聞き返した。

 

「その当時は映画なんて全く興味がなかったし、だいたい自分なんかが通用するとも思っていなかったから、勧められたけど、結局断わったんだ。でも、映画が公開されたら、やっぱり後悔したね。まぁ~時すでに遅しだけど…。」

 

と話すと、私がこの話に半信半疑になっていると思ったのか、2~3枚モノクロの写真を古いタンスの引き出しから出して、これぞとばかりに私に見せつけた。

 

私は二重に驚いた。そこには長身のちょっとキムタク似の青年が映っていた。よーく見ると少しその方の面影が残っている。まんざら嘘でもなさそうだ。

 

「かっこいいですね。キムタクみたいですね。」

「まあな。当時はもててしかたなかったけど」

 

どこか恥ずかしそうに少しうつむき加減で答えた。

それから、その方の人生は紆余曲折の連続で、人とトラブルを多く起こして、しまいには浴びるほど酒を飲み続けた結果、慢性のアルコール中毒になり、入退院を繰り返すようになった。今では足腰もすっかり弱り、その後遺症に悩まされながらも、6畳一間のアパートに公的な支援を受けながらひっそりと暮らしている。

 

おそらく、一見この方にそんな過去があったようには思えない。でも、そういった人生の大事な局面でのちょっとした選択で、その後の人生が大きく変わることなんて誰しもが経験することだろう。

 

 

その点、私の父親はやはり変わり者の部類だろう。

 

日本が韓国を自国にしてしまった数年後に父親は韓国の仁川に生まれた。

 

小学校の時は学年1の秀才で、当時は学校ですでに習ったことをテストに出しているのに、なんでみんな100点が取れなかったのか不思議でしかたなかったと生前よく私に話をしていた。

私もこんなに清々しくさらりと自分の自慢話をする父に、「うちのお父さんは本当にすごいんだ。なんでもわかるんだ。」と心の底から思っていた。現に学校の宿題を教えてもらっていたし、質問をしてもわからないことはまずなく、うちの母親が小学校3年くらいから宿題を教えることが出来なくなるのと対照的にますます尊敬できた。

周りの大人もだいたい母親と同じレベルだとわかると「大人ってたいしたことないな」と私は内心バカにしはじめて、大した能力もないのにちょっと変わった、大人から見るとやっかいで可愛げのない子供へと成長していった。

 

私の父は一橋大学出身だった。小さい頃は無名大学だと思っていたが、日本でも有数の一流大学だと小学校4年生くらいからわかった。

「おい、大学ぐらいは入れよ、最低でも◯◯大(旧7帝大)ぐらいはな」と私と兄、姉にも口癖のように言っていた。

 

でも、中学校に入ったあたりでちょっと疑問がわいてきた。

「なんで父親の学歴が高いのに、うちは他の家より貧乏なのか…。」

 

小学校高学年くらいになるとやっと、学歴と収入の相関関係が自分にもわかってきた。

そうなるとますます疑問は深まる。でも、その疑問を直接、父親にぶつけることはできなかった。

 

なぜなら、本当は学歴があり博識で教養人であると自負している父のプライドを、子供ながらも傷つけてはいけないのではないかと、なんとなく感じていたからだった。

 

確かに父はよく「昔の方が受験戦争は厳しかった。なぜなら、皆目的意識があり、目指すところがはっきりしていた」というようなことを言っていた。高学歴の芸人やタレントがもてはやされる現代とは雲泥の差だ。

 

では、そんな父がなぜ晩年(父親は晩婚で50歳で結婚し、私は56歳の時に生まれた)にそのようになってしまったか…それは前述の80歳代の方と違い、「やる人生」(というよりやってしまった人生)だったからだ。

 

大学卒業後、父は大手商社に就職するのを親戚中から期待される中、当時日本領であった外地の平壌の商社に勤めたという。当時は日中戦争の前の日本が大陸に本格的に戦争を仕掛ける前で、ビジネスチャンスがいっぱい転がっていた。そんな中、父の就職した会社は、一獲千金を狙おうと新たなフィールドに飛び出したところで、今でいうところのベンチャー企業だったようだ。数年後独立して、中国の天津の郊外で農場を経営していた。その農場の広さは馬では一日かけても回り切れず、夕日が沈む広大な平地がすべて自分の土地だったと後年話していた。

その後、日本が戦争に負け、共産軍のゲリラ戦をかわしながら命からがら引き揚げ船で日本に帰ってきた。

その後は常磐で炭鉱の社長をしたり、親戚の紹介で船舶の会社に勤めたりと紆余曲折を経て、自分と仕事仲間で学校教材の事業を立ち上げた。仲間とのその事業が軌道に乗りかけた時、また独立をして個人事業主になり、それから結婚し、私を含む子供3人を授かった。それからは事業としてはパッとせずに25年くらい続けて、父が亡くなりその1年後に事業をたたんだ。その時、数百万の借金だけが残った。

私たち兄弟は今、それぞれ別の道を歩んでいる。

 

最初の方の人生と父の人生、ある時は「やる人生」であっただろうし、「やらぬ人生」でもあっただろう、やったからといって必ずいい結果になるとは限らないし、やらなかったからよかったという結果もあるだろう。

ただ、最初の方もうちの父も昔話をする時は(父はここでは書ききれないほど死にそうな目に何度もあっている)なんか楽しそうだなと思った。

 

なぜなんだろうか?

おそらく、余計なことを考えずにただ突っ走ってきたからだと思った。

最晩年、父親はパーキンソン病に苦しめられた。その当時は医者にも治療方法やまして介護方法などもわからずに、私たち家族は治るのを信じて、病院の階段の昇り降りや散歩などをさせていた。今思うと過酷なリハビリだったと思う。今になって考えればもっといい方法はあっただろうにとつくづく思う。

 

ただ、その時も父は前向きにリハビリをしていた。病院の薄暗い階段を日々硬くなっていく両手、両足を必死に動かしながら、私たち家族は交替でそれを支えながら行っていた。その時も顔をこわばらせながらも一切手を抜かず一歩一歩階段を昇って行った。当時高校生だった私はうめき声を上げながら、よだれが床まで糸を引きながら垂れていくのを見ながら、正直「この人はここまで生きたのだから、もういいのでは」とも思った。

 

それから半年もたたないうちに父は亡くなった。

 

最初紹介した方も偶然に同じような病を患っており、頑固だと周りの人に言われる中、今も自分なりに突っ走っている。

 

結局、やるも、やらぬも自分を貫かないとできんのかなと思う。

自分を貫くって自分らしくってことだろうか?

 

そういうふうに生きられればいいと思うが、どこまでできるだろう。

せめて、どんなにめげそうになっても、ブログを書き続けることしていきたいが…。

 

 

いかがでしたでしょうか。このブログを書いていて父のことを久しぶりに思い出しました。ここには書ききれないほど、エピソードは満載なのですが、今思えばチョイ悪オヤジみたいな感じかもしれませんね。基本的に私にはとても優しい父でしたが、1年で唯一とても厳しくなる日がありました。それは「書初めの日」でした。たかだか墨で2文字書いて学校に提出するだけなのに、何度も「違う!書き直し」と言われ何度も練習させられました。「字がうまければ、バカには見られない」と父はよく言ってましたが、おかげで、仕事ではなぜか能力以上に評価されるので、今となってはまんざら嘘でもなさそうだと思います(^^;)

こうやってブログを書いてみようと思えるのも、本や読み物が大好きだった父親の影響があるように思えます。

最近、この歳になってようやく親のありがたみが心に染みるようになりました。

親孝行 したい時には 親はなしとはよく言ったものですね。

 

 

 

 

あっ、まだ、母親がいた(>_<)

 

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父の出身校。母曰く、色々あったらしい。